ふたり旅(公文健太郎 ✕ 山口誠)

京都 天龍寺

1339年、室町幕府初代将軍の足利尊氏によって開かれた禅宗である臨済宗寺院。嵐山・亀山・小倉山を借景にする曹源池(そげんち)庭園は、日本初の作庭家とされている禅僧・夢窓疎石(むそう・そせき)による回遊式庭園です。曹源池庭園は国の特別名勝に指定され、寺院は世界遺産にも登録されています。

聞き手・構成|圓谷真唯

山口  『天龍寺』は世界遺産として大人気の観光スポットですね。嵐山などを借景にしている曹源池庭園があり、夢窓疎石の作庭だと伝えられています。でも現地では、自分はここで何を捉えたらいいのかと、悩みました。大きな池の向こうに嵐山があるのですが、山が庭園と地続きとなっているため、まさに自然そのままで、それが借景なのか背景なのかがわかりづらいんです。

もちろん嵐山が適切な見え方になるように、手前の木々の高さを調整しているとは思いますが、あまりに自然の一部に見える。山と庭園が隣り合っているだけのように感じてしまう。嵐山というアイコンがあるから、借景としてぎりぎり成立しているような気がしました。

公文  天龍寺ではものすごい数の観光客がいて難しい撮影になりました。視点場にはベンチが置いてあって常に人が座っていたり、天候的にも背景に光が当たらない逆光状態で、写真として画にならないと思い、違うものを探しましたね。

夕方になって、撮りたいと思っていた場所に人がいなくなった瞬間を捉えました。大方丈(おおほうじょう)の脇にある小方丈(こほうじょう)の一間からです。障子の向こうに借景があるのですが、光の具合で嵐山がシャドウ、松がハイライトになって、歌舞伎の書き割りのように奥行きが生まれているのが美しいなと。どちらにも光が当たっていたとしたら、このようには写っていないでしょう。

山口  池のほとりに立って何となく見ていた風景から、公文さんの視点を通して初めて魅力的な借景に見えたことは、僕にとって感動的な体験でしたね。 室内の障子によってフレーミングされながら、右上がりの柱の影、低い手すり、右下がりの松、池、左下りの山とジグザグに構図を躍動させながら、遠くの借景を絶妙に切り取っている。公文さん、すごい! と思った一枚です。

もしかしたらこの庭園は、広がりのまま見るのではなくて、障子で切り取られる前提でつくられているのかもしれません。そうでないと風景として広すぎると感じました。これは公文さんの写真を見て思いついたことです。室内で行事を行っているときは障子を閉めておいて外を見せず、終了したらそれをバーンとあけて、フレーミングされた風景を見せる、という仕掛けではないかと。

公文  見渡している状況から切り取っていくことによって、気づきがあるのがおもしろいですよね。見方が定まっていくことは、写真と借景とで似ている部分があると思います。アングルとしては人が正座して見るくらいの高さなんですが、日本文化の生活様式に合わせた高さでつくられているのかもしれません。

山口  曹源池庭園の奥に、多宝殿という祠堂(しどう)へ通ずる細い通路を蛇行するように流れる小川があります。これがとても綺麗でしたね。でも、観光客は誰も気にも留めていないのも興味深い。曹源池を中心とした風景がざっくばらんとも言える風景であるのに対して、別の場所には高密度でミクロな世界がつくられている。ほかの日本庭園でも感じたことですが、メインとは別に、多くの場合には裏側に見ごたえのあるスポットがあることがあります。そうすると、すごく充実した経験をした気分になれるんですよね。

公文  日本庭園ってオープンして人が入っていても、庭師が手入れをしているじゃないですか。それも風景としていいなと思いました。僕はどんどん松を好きになっていくし、庭師の人たちもかっこいい。秋口だったので、敷いたシートの上に葉を落とす作業をしていました。

山口  現在の機能的な素材であるシートと松のセットは、写真としておもしろいとは思いますが、僕のなかでは「隣り合うマチエール」としては受け入れられないんですよね。このプロジェクトを通して庭の美しさを知ってもらいたいという思いがあるので、やはり美しいかどうかが判断基準になります。その一方で、シートがあるからこそ写真としては魅力的に感じられると思います。何気ない情景を印象的に変えている。これもまた写真の力ですね。

2021年10月27日