ふたり旅(公文健太郎 ✕ 山口誠)

京都 正伝寺

比叡山を借景としています。庭園自体は白砂とさつきの刈込のみで構成されていて、極めてミニマルです。その向こう側に見える、やはり正伝寺の敷地内にある木々はざっくばらんに生えているようですが、実は遠方の比叡山に向けたパースペクティブをつくっているという、極めてテクニカルな構成をもつ借景庭園です。庭園は江戸時代の1653年に造営されているのですが、現在の姿は昭和に活躍した重森三玲氏によるものです。京都市指定名勝です。

山口
正伝寺はデビット・ボウイが涙したという逸話があるところですね。ここは圓通寺と同じ、比叡山を借景としています。たまたま借景がそこにあるかのごとく作られてはいるんですが、圓通寺よりももっと見せ方がわかりやすくなっていて、パースの先に比叡山があるんですよ。ちゃんとそこに焦点が合うようになっていて。木々の頭のぎりぎり下に塀があって、そこに目線を誘導するような意図を感じますよね。例えばヴェルサイユ宮殿の庭とかっていうのは、同じ高さの並木が何キロにもわたって続いていて、ものすごいパースペクティブが作られているんです。この先に何か特別なものがあると示しているものなんですね。でもこれはなんとなく感じるようになっているだけ。こうやって説明するとそういうふうに見えてくるけど、見逃してしまうかもしれません。それぐらい、決して主張せず、ただたまたまそこにあるだけ、だけど実は色々考えている、というのが日本の借景のあり方なんじゃないかなと思うんですけどね。

公文さんはこの場所で、あえて違う撮り方をしようとは思わなかったですか?

公文
違う撮り方がないんですよ。制限というか、見る位置が決まっているので、違うところでは撮れないんです。少しでもカメラを上下左右に振ってしまうと、線が崩れるんです。

山口
ここも視点場というものが固定されているんです。圓通寺同様ここは禅宗のお寺なんですが、禅宗のお寺というのは庭にすごく力を入れているところが多いんですよ。庭として究極的にいうと、後ろの山が仮に見えなくなっても何も問題なんてないんです、それはただ見えなくなっただけにすぎないだけなので。借景としている山や周囲の環境というのはそもそも自分の敷地ではないのだから本質的に何が起こるかわからないわけじゃないんですか。京都のかつて借景庭園であった場所は、新しい建物ができてしまったことによって借景庭園として成立しなくなってしまったという事例もあります。龍安寺ももともと借景があったんですけど、今はもうないんです。だからって別にみんな残念がっているわけではないんですよ。庭としては成立しているからです。借景こそが庭でみるべきもの、という感覚になってくるのが借景、という考え方もありますが、肝心な借景がなくなった龍安寺はそれがなくなっても成立しているわけだし、全てを決めてかからないのが面白いところのひとつですよね。

日本と西洋とでは自然に対する考え方も違いますよね。

山口
イタリアのフィレンツェの街は山に取り囲まれているんですが、メディチ家の別荘というのがそれぞれの山の中腹に点在しているんですよ。自分たちの家から親戚の家が見えるように配置されいて、それはフィレンツェの街をメディチ家がぐるりと囲って支配しているという構図なんですよね。それに比べたら、これは全然自分と関係ない山があって、それを見るための庭にすぎないのが興味深いですよ。